TSU・NA・GI

2002年を迎えて
―「100人の村」と「100人の価値観」―


 新年あけましておめでとうございます
 旧年中のご厚情に厚く感謝申し上げます
 本年も変わらずご支援、ご協力を賜りますようお願い申し上げます
 ブレーンヒューマニティーは、若者や子ども達が将来の社会において重要な役割を担うことを信じ、次の使命を掲げる。

 1. 子ども達に対し、それぞれが多様な  価値に触れ、選択肢を広げることのできる機会を提供する。
 2. 若者に対し、多様な価値を創造していくための機会と基盤を提供する。
 3. 社会や地域に対し、若者や子ども達が自分らしく生きることのできる環境づくりを推進する。

 2001年の中頃、インターネットを中心にこんな話が広く流されました。その話はあるアメリカの学校の学級通信として伝えられ、全世界を100人の村に例えながら話が展開されています。「もし、現在の人類統計比率をきちんと盛り込んで、全世界を100人の村に縮小するとどうなるでしょう。その村には57人のアジア人、21人のヨーロッパ人、14人の南北アメリカ人、8人のアフリカ人がいます」という出だしで始まり、「もし銀行に預金があり、お財布にお金があり、家のどこかに小銭が入った入れ物があるなら、あなたはこの世界の中でもっとも裕福な上位8%のうちのひとりです。」と様々な具体的な事例を用いて、メッセージを伝えています。(詳しくは池田香代子編『世界がもし100人の村だったら』マガジンハウス 2001年)
 この文章は、Eメールを中心に広がっていき、朝日新聞などのマスメディアでも取り上げられました。確かに、世界を100人の村に例えると、非常に実感として世界観をつかむことができます。同時に様々なモノに満たされている私たちの生活を振り返る機会ともなります。他者に目を向けながら、自分の位置を知ることは、自分自身を見つめる上で重要なことです。ただ、私はどこかこの話に違和感を感じるのです。
 この夏、当会では高校生フィリピンワークキャンプを実施し、貧困層のための住居建設を行いました。フィリピンのスラム街で貧しい生活を送る人々とともに生活し、ともに汗を流しました。そこで、高校生達が知ったことは、確かに物質的には豊かではない生活だが、人々は一日一日を幸せに生きているということでした。ある高校生は帰国後の感想文でこんな事を書いています。「本当に一生懸命頑張って暮らしてる人に、ただ貧しい国だと言うことだけで同情することは間違ってると思う。確かにお金は無く貧しい暮らしをしているかもしれない。でも笑顔はある。幸せな暮らしもある。僕はそんなことをドゥマゲッティに行って、そこで生活して、ひしひしと感じた。」
 私たちの生活は確かに物質的な豊かさにあふれています。それは全世界のなかでも数%に入るものかも知れません。しかし、私たちが本当に幸福な生活をしているのか、それを即答することのできない脆弱性を抱えながら、多くの人々は生きています。それを思うとき、銀行の預金やコンピューターの有無だけで、人々の幸福を区別することに違和感を覚えるのです。
 物質的な豊かさは、ある特定のモノの有無や数値で計測することは容易です。しかし、それぞれの幸福について考えるとき、それはそれぞれの価値観に由来するところが大きくなります。私はこの話が伝えるような一面的な価値観は、先進国の、そのなかでもある程度豊かな生活を送る人々のみに妥当するものではないかと思うのです。多くの人々は、その限られた価値観のなかでは、不幸なもなのかも知れません。しかし、その価値観をすべての人に一方的に押しつけることは許されません。不幸な人々に対して、何らかの助けをしようとすること、それは至極自然なことかも知れません。しかし、その動機が同情や憐れみであれば、それは単なる価値観の押しつけなのかも知れません。
 私たちは、社会において多様な価値が存在することを認めようとしています。そして、それぞれの価値観を持つ一人ひとりの子どもたちが、自分らしく成長することのできる社会を創造しようとしています。
 21世紀は、争いや混乱の中で幕を開けようとしています。そのなかにあって、互いの多様性を認めあうことの重要性が認識されつつあります。私たちの働きは小さなものです。しかし、その働きがやがて大きな社会へのインパクトとなることを願います。

特定非営利活動法人ブレーンヒューマニティー代表  能 島 裕 介

TSU・NA・GI 第3巻第5号(2002/1/1発行)より