卒業生の声 2002年度版 当会では毎年、卒業生がそれぞれの世界へと旅立っていく。 人生のある期間をBHで過ごした一人一人は、 私達にとっての成果であり、宝物でもある。 2003年・春、BHを卒業していった仲間達は、 送別会に際して、後輩達にメッセージを残していった。 そのメッセージをここで紹介したいと思う。 ※ここに掲載されている文章は、2003年3月に行われた送別会に際して作成された卒業文集に掲載されたものです。 ※2002年度の卒業生のなかで、文集に寄稿していない方については、ここには掲載されていませんので、ご了承ください。 ※原則として、原文のまま掲載しておりますので、誤字脱字等はご容赦ください。
「BrainHumanityの仲間たちへ」 浅川 のぞみ 「子どもが笑ってくれた」と 無邪気に笑っていたのはあなたでした 悔し涙が落ちた時 側にいて慰めてくれたのはあなたでした 意見が食い違い 時に激しく議論したのはあなたでした 答えの探し方がわからない私を 根気強く導いてくれたのは あなたでした くだらない話で笑いあったのは あなたでした 事務所に泊まることになった私に 付き合ってくれたのは あなたでした おもしろい企画のアイデアで おおはしゃぎし合ったのは あなたでした 子どもの怪我に 何よりも心を痛めたのは あなたでした お馴染みのコンビニに 一緒にごはんを買いに行ったのは あなたでした 全てが終わった後のお酒を めちゃくちゃ幸せな気持ちで一緒に味わったのは あなたでした いつも自分がしたいこと・できることをしてきたつもりでした そんな私の側には いつも「あなた」がいてくれました 「あなた」が支えてくれたから 私はここで大切なものを確認したり・創り出すことができました ありがとう ありがとう これからの私たち きっともっと困ったりおもしろかったりするはず そんな時 ここでの経験や思い出や得たもの全てが 私を支えてくれますように あなたを支えてくれますように そしてお互い 一回りどころか百回り・千回りくらい成長して またいろんな話をしようね あなたとの再会を心待ちにして 2003.3.14 のぞこ 目次へ>> 「BHキャンプ史概説」 上田 篤志 初キャンプリーダーも初総責も高校時代だった。今では初々しさのかけらもなく、何かにつけて文句を言いたくなってしまう。「古き良き時代」という言葉が、仮にもし的確な表現であってくれれば、今の自分はどれだけ救われるだろうか。自分が「良い」と思っていることが、「時代遅れ」なのではないかという恐怖から解放されるからだ。今回のこの文章では、「時代遅れ」であることにひるまず、いやしくも己の厚顔無恥をさらけだすこととしよう。 私がBHの前身である関学学習指導会の活動に初めて参加したのは高校1年生の時だった。前理事長の森山さんや頼生さん安西さんらが新人として初々しくキャンプに参加していた。能島さんらの年代がキャンプを牛耳っていた時代なのでキャンプに関しては頼生さんや安西さんらは(失礼ではあるが)ペーペーだったのである。しかし、頼生さんや安西さん、難波さんは私にとってカリスマリーダーであった。子どもを惹きつける素材、子どもを引きつける技、リーダー同士の友情、どれをとっても私にとっては真似をしようと努力させられる魅力的なリーダー像だった。私もキャンプリーダーを数回やった。諸先輩方とともにリーダーを務め、色々勉強させてもらい、自分なりに消化し、努力した結果、自分では満足いくリーダーができたのではないかと思う。時には子どもの前で涙し、時には子どもにマジぎれし、時には先輩と口論を巻き起こした。しかし、そこには子どもとの厚い信頼関係があった。 頼生さんや安西さんがリーダーとして子どもにしてやりたかったことは何か。これが、1999年、2000年の夏キャンプの契機となっている。彼らは決して単に子どもを楽しませようとしたのではない。単に子どもと触れ合いたかったのではない。単に子どもに非日常体験をさせてやろうとしたのではない。単にイベントがやりたかったのではない。なぜキャンプを実行するのか、なぜ総じて責任を負う役につくのか。その理由は、「自分の思想のすべてをつくして子どものためだけに野外活動を行いたい」という願いだけである。 私は頼生さんのキャンプで副責を務めた。頼生さんのキャンプではフリータイムが本格的にキャンプに導入されることになった。フリータイムは今では馴染みとなったが、当時は実験的試みであるとともに、徹底した思想に基づいていた。徹底した思想に基づくことはイベントとしての本質に関る。なぜなら、フリータイムは失敗と隣り合わせであるからだ。全く自由な時間を子どもに与えるわけであるから、相当のバックアップがなければイベントとして通用しない。単に、リーダーが子どもの言われるがままのドッヂボールや焼き板、メダルつくりをしているようなフリータイムは失敗といってよいだろう。なぜなら、そこには、子どもに「楽しさ」しか生まれないからである。「楽しい」ことは「嬉しい」ことの前提条件であろうが、十分条件ではない。 前述した二つのキャンプはイベントとして成功するに相当のミーティングと熟考が繰り返されている。子どものため、子どものために何回も何回も何回も話し合い、考え、討論し、話し合い、考えた。私は安西さんのキャンプで当時一回生の池内が企画の責任者として涙して完全燃焼していたのを熱く思い出す。池内は子どものために何回も考え、悩み、話し合い、討論してきたのだろう。彼女は時に厳しいことを言う。しかし、彼女にはそれ相当の経験が伴っている。少なくともあの時確かに、しかるべきことに成功していた。 この企画に対する思想の徹底と実行における厳しさという伝統はいかにして生まれ、いかにして今にいたるのであろうか。それは、能島さんらによって築かれ、森山さん世代を経て、一部の人間にひそやかに受け継がれていた。これはレクリエーションに関してである。私は2001年の夏と2002年の春にキャンプを行ったが、そこでは、その伝統のままにキャンプを行ったつもりである。BHキャンプ史の古典ともいえるキャンプであったのではないだろうか。 子どもと共に何を語るのか?それは「希望」である。「希望」の語れない「楽しい」だけのイベントはBHキャンプ史において非常に価値の低い、面白みのない、やってもさほど意味のない活動だと言えるだろう。「希望」が語れるキャンプとは、総責任者が経験と思想とを駆使した一つの作品としてキャンプ像を提示し、それに基づいてスタッフ、リーダーが一丸となって実現させようと努力し、子どもがそのキャンプで「希望」の意味に気づく幸運とめぐり合わさることのできるキャンプなのである。しかし、それは並大抵のことではない。総責任者を精神的、物理的に支援し、キャンプをイベントとして成り立たせるためにあらゆる案をはじき出すいわゆる事務官、スタッフ一人一人のスキルを把握し適材適所を遂行し120%の効果を引き出す補佐官、総責任者の言動を客観的に判断しなおかつ金銭的、規約的に歯止めをかけ、準備の動向を見渡せる会計官がいなければならない。それは私にとって川中、桐野、田靡であった。当然、総責任者の言動に対して根気よく耳を傾け、愛してくれるスタッフ一人一人がいなければならない。 これからもBHではレクリエーション活動が行われるであろう。しかし、そこに思想がなければBH主催でなくてもよいのではないだろうか。子どもと一緒にキャンプ場で寝泊りしてカレーを作ってドッヂボールするだけなら、高校生でも主催できる。では、BHでやるキャンプの質とは何だろうか。それは、どこからも強要されない質である。別にどのようなキャンプをやろうが、子どもが楽しめば保護者からは喜ばしいアンケート結果をもらえる。保護者と子どもがアンケートで満足していれば成功なのではない。目の前の結果に踊らされている主催者を見ると粗末な自己満足におぼれる無能な中間管理職を思わされる。キャンプの質とは子どものためにできるあらゆる手立てを駆使し在り得るすべての智恵を出し合って、子どものために、子どもが将来にわたって持ちつづける輝かしい思い出をプレゼントできる質なのではないかと思う。その具体策は総責任者の思想の中にこそ存在するのである。 BHキャンプ史は具体的に語りだすときりがない。私達卒業生はだれもが、後輩達に語りたいことが山ほど有るだろう。それは、私達がキャンプにおいて成しえたことに自身と誇りを持っているからだと思う。キャンプに関しては人格が変わる人たちばかりで、噛めばかむほど味の出る同輩と同志に恵まれた。「輝け夏キャンプ!2001」と「スプリング!発創生活2002」は私にとってかけがえのない友と、普通の大学生では得ることの出来ない感動と能力を得ることができた。これは、共にキャンプを創ったメンバー全員のおかげであると思う。心から感謝したいし、これからも感謝しつづけて、さらに仲良くなりたいと思う。 私は7年間、BHキャンプ史の中に生きた。子どもが好きそうでもなく、アウトドアができそうなわけでもなく、子どもの心理のメカニズムを知っているわけでもない私が、拙いながらも以上のように論説することができるのは、能島裕介氏のおかげである。ここ3年くらいの間にBHに参加されている人にはわからないかもしれないけれども、私達にとって能島さんはカリスマであった。私にとって能島さんはキャンプの人だった。キャンプを行うにあたっての思想のありかたと厳しさについては能島さんに習った。習ったといっても直接的にではなく、高校生の私の意見にまともにとりあい討論してくれ、評価し、激励してくれたことで結果的に私は伸びることができたのだと思う。最近、氏とは話もしていない。しかし、悔しいし照れくさいが、私にとっては氏はいつも大きい存在である。おそらく改まってお礼を言う機会はないだろう。この場をかりて心の底から能島さんにお礼を申し上げたい。本当にありがとうございました。 私は去年、教職免許状の取得のため、関西学院高等部に教育実習にいった。すると、私が高校生の時にキャンプリーダーをした子どもが高校生になり、私の担当クラスにいたのである。彼の中で私はどれだけの存在かはわからない。しかし、彼が5年も前のキャンプの思い出を笑顔で楽しく語ってくれる姿を見ると、事後の保護者アンケートでは得られない喜びを感じた。後輩のみなさんには、自分の与えられている素晴らしい条件・環境を惜しみもなく活用し、素晴らしい経験と能力を手に入れるべく、純粋に子どものために汗と涙を流していただきたいと切に願うばかりである。 目次へ>> HEP4回生大久保祥子です。一言だけ。 『学生生活悔いのないようにすごしてくれ!』 目次へ>> 「もう一つの家」 加藤 暢之 本格的にBHに参加したのは今からちょうど2年前。 関わりを持った時間の長さで言えば、他の人と比べても長い方ではない。それでも、BHで過ごした2年間は非常に濃密な時間だった。 振り返って思い出されるのは、数えきれないほど事務所に泊まったこと。 人影がまばらになった真夜中の事務所。 国道2号線沿いでラーメンを食べ、そのあと、銭湯へと足を運ぶ。 そして事務所に戻り、また仕事。 朝の陽光が窓から差し込む時間まで、 ひたすら仕事をしていたこともあった。 事務所は自分にとって「もう一つの家」だった。 魅力的な人たち、個性的な人たち、自分を迎えてくれる仲間がそこには待っている。 いつのまにか自分の家よりも愛着が湧き、 事務所に住み着くようになっていった。 ときにはバカな話に花を咲かせ、 ときには熱く語り合った。 もちろん苦しいときもあったけど、 事務所での時間はとても充実していたと心の底から思う。 これからのBHを担う後輩たちへ。 つらいとき、逃げ出したくなるとき。 そんなときに、一番真価が問われるのではないでしょうか。 「ピンチ」を「チャンス」と捉えて、 少しだけ我慢してみてください。 その先には、きっと明るい光が待っているはずです。 また、いろんな個性を持った人が集まってこそBHは成り立っていると信じています。 一人一人違う人間だし、「自分の力を活かせるポイント」もそれぞれ違うと思います。 自分の力を発揮できる場所をぜひ見つけてください。 BHを卒業し、これから社会へ巣立つこととなります。 BHで培った経験をもとにみんなに「目標とされる人」になれるよう頑張ります。 目次へ>> 「人生を預けられる組織」 川 中 大 輔 1.はじめに 大学の卒業とBHからの引退を前に、何か書けということである。「老兵はただ去るのみ」と思い、頼もしい後続のメンバーには、もう何も言うことはないのだろうと思っていたが、折角機会を与えられたので、BHの活動を振り返ったりしながら、最近考えていることの一つを簡単に述べたい。なお、本稿は後続のメンバーに向けられた問いかけであるが、同時に共にBHで活動した同志に読まれることも強く意識している。本稿で書いたことは、改めて言うまでもないが、「正解」ではない。あくまで個人の一意見に過ぎない。ここで書いたことについては、後輩のみならず同輩とも意見をぶつけ合っていきたいと考えている。そう、これは「議論の叩き台」に他ならない。はじめにそのことを断っておきたい。 2.子どもの成長にコミットしている 何だかんだと通算10回弱もキャンプに参加して、考えるようになったことがある。それは、私たちは、子どもに関わるNPOとして、そのメンバーとして、「子どもの成長にどうコミットするのか」「子どもが置かれた社会状況や環境にどうコミットするのか」という2つの問いと向き合いながら、事業やプロジェクトを計画し、実行していくべきではないかということである。貴重な子どもの時間を預かっている私たちには、それなりの「責任」がある。何故その企画なのか、何故キャンプなのか、何故BHでなのか、そもそも何故子どもに参加を呼びかけているのか、自分の言葉で応えられるべきではないか。それが無理であれば、子どもを巻き込んでいるということに対して、「無責任」ではないかと思う。私たちは、参加してくれている子どもに「借り」があるのであると理解するべきだと思う。 昔話になるが、私をBH(KGTA)へと誘い込んだ上田篤志が「ちびっこサマーキャンプ99」の準備をしている時に私にこう言った。 「キャンプが好きだからキャンプをするっている理由ならば、子どもを呼ぶ必要はないよね。ちゃんと子どものことを考えないとね。」 この発言は、私たちが陥りやすい過ちを指摘していると思う。この「子どものことを考える」ということについては、その言葉を盾にして、保護者という顧客のことを考えない、向き合わないのではないかという批判もある。確かに保護者のことを忘れてはならない。彼ら/彼女らは確かに顧客である。しかし、保護者のことだけでも同時にいけないことは言うまでもない。ここで誤解して欲しくないのは、別にフレイレの言う「銀行型教育」をしなければいけないと言っているのではない。何かしらの「気づき」や「学び」が個々個別にある「共育」の機会を創造/提供することが大事だということを言いたいのである。別に「○○ができるようになる」などという能力開発教育目標がなくてもいい。「リーダーと一緒に長期間寝食を共に過ごす中で『異なる他者』としっかり向き合い視野が広がること」のようなものでもいい(事業評価や教育効果測定の話から行けば、もう少し目標は落とし込む必要があるけれども、そうしたテクニカルな部分よりも、大きな部分を今は理解してもらうべく、事業評価論については書き進めないがご了承頂きたい)。コンセプトを明確に立てる、そしてその実現のための企画を立てるということは、皆も行なっている。しかし、そのコンセプトが「子どもの成長にどうコミットするのか」「子どもが置かれた社会状況や環境にどうコミットするのか」という2つの問いを踏まえているものか、きちんとチェックしているだろうか。「単純に楽しく、想い出に残るイベントを!」と何人かのメンバーが言っていたのを聞いて、私は違和感を覚えた。「楽しい」のも「想い出に残る」のも、いかなるイベントにおいても当然のことではないか。それにプラスαがあってこそ、NPOで学生主体の組織であるBHならではと言えるものになるのではないか。 3.学生主体のNPOとして活動を展開している 前節で「子どもの成長にどうコミットするのか」「子どもが置かれた社会状況や環境にどうコミットするのか」ということを問う必要性を述べたが、コミットのアプローチはただただ思いつくままに行なってよいものかと言えば、そうではあるまい。私たちが活動するBHはNPOであることを忘れてはならない。NPOは社会に新しい価値を創造する。NPOは社会に価値を具現化した機会提供をする。NPOは市民社会の実現に向けて、社会を変革する。このことをいきなりは無理でも、ちょっとずつ意識していくべきであると私は思っている。 こうしたNPOへの理解に立脚すれば、私たちは単純に「ニーズに応えておればいい」というわけではあるまい。私の実感からして、保護者の顕在的なニーズは思いの外、単純である。保護者の表層的なニーズ(期待)には「子どもを一時的に預かって欲しい」「子どもに楽しい想い出を創って欲しい」というものが少なくない。こうした顕在的なニーズへの対応をしている「だけ」では、そもそものNPOのレーゾンデートルに照らし合わせて、不十分ではないかと思う。 特に私たちの提供しているレクリエーションに関する機会への参加者の殆どは、「保障の問題」を抱えている人々ではなく、恵まれた人々が多い。そうした参加者に対しては、特に「ニーズへ表層的に対応する」だけでなく、彼ら/彼女らが自分自身で気づいていない「ニーズを積極的に提案する」ことが肝要ではなかろうか。 「潜在的」で、日常生活の「深部」にあるニーズを掘り起こし、提案していくこと。これこそ、新しい価値の創造へつながる行為であろう。繰り返すが、ニーズに対応する「だけ」では、NPOとして「良い」と言えないのではないかと思う。ただ、「ニーズの提案」は、「創造」という新しさ故に、或いは創造過程であるが故に、すぐに顧客を獲得することは難しい。そう易々と好評価を得ることも容易なことではない。このことを考えれば、「ニーズに対応する」ことと「ニーズを提案する」ことはバランスよく組み立てて、活動そのものを安定させながら、価値の創造と定着を促していくべきであるということが言えよう。 今のBHは「ニーズへの対応」と「ニーズへの提案」のバランスはどういった調和点でとられているのだろうか。事業によって異なっているであろうが、「マーケティング」による「ニーズの把握」という「言葉」だけが先行している感があるBHでは、「対応」への動きの方が大きくはないだろうか。「提案」について忘れていないだろうか。BHの組織的な安定はあくまで動的であり、静的ではないが故に、どうしても顧客を掴みやすい「ニーズ対応力」が重視されやすい傾向があると見ている。「ニーズ提案力」、それは広義では「ニーズ対応力」の一部であるが、その一部こそBHがNPOとして大事にすべきところではないだろうか。これからのBHには、「対応力」のみならず「提案力」が求められてくるだろうと、否、求められるべきだと私は考えている。 また、私たちが活動するBHは学生主体であることも忘れてはならない。学生主体であることの「強み」とは何か。学生主体であることの「弱み」は何か。学生主体であることの「意味」や「理由」は何か。私たちの存在は子どもから見て、保護者から見ていかなる存在なのか。こうした問いと向き合っていくべきであると私は思っている。 こうして、学生主体であることがどういうことなのかを問い続けながら、子どもを巡って社会にどういったサービスが存在して、何がなされているのか/何がなされていないのか、何ができているのか/何ができていないのかという社会状況を踏まえ、全体の中でのポジションを確認して、オリジナリティな活動を展開していくべきだと私は考えている。 4.人生の一部を預かる/預ける 非常に概念的な話ばかりで申し訳ないが、これもまた川中らしいとご理解賜れれば、幸いである。2節で子どもの成長や子どもが置かれた社会状況にどうコミットするのかを考えていく必要を述べ、3節ではそのコミットのアプローチに際して、NPOであるということ、しかも学生主体であること、この二つをBHの場合、踏まえておくべきではないかということを述べた。 なぜ私がこうした堅苦しい事柄を書いているのか。私自身、そうであったのだが、慌ただしく、忙しく日常的に活動していると、概念的な大きな枠組みについて思考を巡らせることは激減しやすい。そうしたことを考える余裕がない。そうしたことを考えるのが時間と労力の無駄に思えてくる。そうしたことを考えても意味がない、成果が出ない。確かにそうかもしれない。しかし、今一度確認したいことは、私たちは活動を通じて、子どもの「人生の一部」を預かっている/預けられているという厳然たる事実である。この事実はちゃんと考えると恐ろしいものであることに気づくはずだ。キチンと子どもと向き合っていかねばならないことに気づくはずである。 そして、同時に忘れてはいけないのが、私たち自身も「人生の一部」をBHに預けている/捧げているという事実である。私たちは貴重な学生生活の一部を預けているに相応しい経験と考える時が与えられるべきだし、また預けるに値しない活動なら預けるのをやめる権利がある。 幸いにして、私は預けて良かったと本心から思えている。預けたことによって、私は経験を積み、多くの人と接し、視野が広がり、考えが膨らみ、人生(観)が大きく変わっていっている。ドラッガーは非営利機関の「製品」は「変革された人間である」と述べているが、まさに私はその「製品」の一つである。BHに人生の一部を預けた「子ども」、そして活動する「学生ボランティア」の両方から、「あそこに預けたのは時間の無駄やった」と思われず、本心から「あそこに預けて良かった」と思ってもらえるように、私たちは複眼的思考をもって、自らの提供するサービスを見直し、自らが活動する組織を見直し、改善し続けて欲しい。「悔い」を産まない組織として、学生主体のNPOとして、今後も活動がなされることを切に希いたい。 5.取敢えず、最後に 言っておきたいこと、書き残しておきたいこと、それはキリがない。本稿を書きながら、「あれも書きたい」「これも書きたい」と思って、実は色々な話を広げた初稿があったのだが、書いたものを読み直し、脱稿する際に紙幅のこともあり、初稿を半分ほど削り、本稿を編集部に入稿した(これでも割愛した方なのかとお思いになるかもしれないが…)。 色々書いたものを削ったのは、私が大きな影響を受けた教員の一人である川本宏夫氏(元関西学院高等部教諭)がよく引用していたテオクラストスのあるフレーズを思い出したからである。 「何をなすべきかは君たちに教えるべき時ではない。それについて考えるのが君たちの仕事である」偉そうなことを書いているが、心から後続のみんなが、私や同輩が築いたものに捕らわれず、破壊的創造を繰り返し、子どもたちのために、自分たちのために、社会のために、各人が「何をなすべきか」を考えて、実行していくことを望んでいる。私たちは自分たちの創ったものが壊されることに何の抵抗もしない。寧ろそれがミッションの実現に貢献するならば、喜んでサポートする。うちなー口(琉球語)に、「いちゃりばちょーでー」という比較的有名な言葉がある。これは「見ず知らずの他人でも縁あって出会えば、皆兄弟のようなものである」という意味である。BHとの出会いも縁。BHでの出会いも縁。BHのみんなとは兄弟であり同志であると思っている。だから、遠慮は要らない。「ちむぐくる」込めて言おう。どうぞ、これから「こそ」宜しく。 謝辞 私のBHでの活動を振り返って、改めてご指導/ご鞭撻を賜った能島裕介理事長を始めとする諸先輩方や、長尾文雄先生を始めとする諸先生方にはお礼申し上げたい。恐ろしく不甲斐なかった私が未だ不十分な能力ではあるけれども、外部から研修やワークショップのファシリテーター招聘のお声掛けを頂けるようになったのも、諸先輩方・諸先生方とのBHでの恊働経験がなければ、ありえない話である。また、何よりも感謝しなければならないのは、共に活動し、共に語り、共に支え合った同輩であり、後輩である。特に上田篤志、桐野泰一、田靡裕祐、宮前正裕、田村明敏、南陽輔、浜之上健太、森麻衣子、三浦一郎、神山良太、岩佐純也の各氏には、何と表現して良いか分からないまでに感謝している。中には、一方的に活力を頂戴したような方も多いが、今後は相互補完関係を目指したいものである。勿論、ここに名を記さなかった全ての同輩/後輩にも心から深謝している。これからも、切磋琢磨し、相互に刺激となる影響を与え合う関係でありたい。宜しくお願い申し上げる。 目次へ>> 桐野 泰一 旅行帰りの僅かな時間内で書かなければならないことになり、船酔い気味で慌てつつ書くため、まとまりがなく読みにくい点もあるかとは思うが、ご勘弁を。 タダ酒とタダ飯のために事務所開設記念パーティーに密かに参加していたなんて記憶はあるのだが、私が本格的にBHに関わったのはここ2年間という短い期間であった。しかしそのわずかな時間の中に、喜怒哀楽全ての感情、数多くの仲間との出会いといったものが詰まり、学生時代で最もドラマチックな2年間であったと感じている。そもそもは高校時代に出会った上田篤志、川中大輔、田靡裕祐、その他数人の友人達と共に「一発でかい花火打ち上げよう」と『輝け!夏キャンプ』を始動したことがことの始まりだった。その気軽な、半ば上田・川中両氏にはめられた感のあるスタートが多くのことを学ばせてくれた。数人の仲間を軸に多くの人々が一つの目標を共有し集い、取り組んでいくことの素晴らしさと難しさはその最たるものである。ここらへんの詳しいことは誰かが(たぶん上田が)書いてくれているだろう。 時には自分に限界を感じ、悩んだこともあった。事務所で胃痛が発生し、帰宅したら治った時は自分の精神が病んでいることに気づいた。キャンプ前日、荷物運びのために事務所−千刈間を車で3往復した時、途中で眠気に襲われガードレールが近づいてきた時は体力的限界を感じた。しかしなぜか身をひくことはできなかった。その原動力は子どもの笑顔ではない(←初キャンプなんだから知るわけがない)。上田、川中、田靡他44名のスタッフの努力に対する思いと、保護者の方々に対する責任感だった。 「給料もらってやってるわけではない、俺はただのボランティア。」そう言ってしまえば何からでも逃げられる気はした。けど、子どものために多額の金銭を支払い、我々に4日間子どもを預けてくださる保護者の方々のことを考えると中途半端は許されないと思った。あの人たちは自分たちのことをプロと思ってるのではないか?実はBHの学生が本格的な研修受けてて、テクニシャンな学生の集まりだと勘違いしてるのではないか?そんな疑問が自分を追い込み、プロフェッショナルとしての結果が求められていると私を打ち込ませた。しかし所詮はキャンプ初参加の学生、無理な話である。眠気を退治するためにゴスペラーズを熱唱しながら初めて作るタイムテーブルは最終ミーティングに間に合わず、キャンプ当日も台風がやって来るとかでてんやわんや。当日の深夜にタイムテーブルを書き直したりした。もうそりゃ凄まじかった。 おかげで、このキャンプが終わった時はかなり疲れた。今と比べると体重も5キロ以上軽くなっていた。初めて体験する子どもたちとの時間、別れの時の涙、笑顔は確かに忘れられない思い出となり、打ち上げでの感動は頂点に達した。だからこそこれからはふたつ返事で仕事を引き受けるのはやめようと思った。最後の感動にばかり酔いしれ、自分が限界に達して満足に仕事をこなせなかったことを忘れてはいけないと考えた。正直、俺逃げてるなと思ったことは何回かあるが、仕事を抱え込みすぎてぶっ倒れたり、ガードレールに突っ込んだりしては洒落にならない(身近に突っ込んでる人がいただけに)と思い、コントロールした。結果的に『輝け!』以上に追い込まれることはそれ以後なかった。『輝け!』で限界を見たばかりに保身にはしってしまったのかもしれない。体重も右肩上がりになった。今思えばあそこまでコントロールせず、もっとがむしゃらに、色々とやっとけばよかったなと思うこともあるが、いまさら仕方ない。私が考え、BHとの関わり方を決めた結果なのだから後悔はない。と言い切りたいところだが、やっぱりもったいなかったかな…。 後輩の皆さんもそれぞれ考えがあって仕事量調整するかとは思うが、こんな中途半端な気持ちで終わることがないようにして欲しい。 ここで、今急に思い出したので、エピソードをひとつ。 震災のあった年の春休み、当時中学生だった私はクラブの合宿で千刈キャンプ場にいた。その時、クラブの顧問が1人の青年を見つけて「よう、久しぶり!」なんてありがちな挨拶と数分間の会話を交わしていた。青年が去って行った後、顧問の教師は私達にこう言った。「彼はおまえらの先輩でな、凄いやつや。高等部の卒業式で答辞を読む役やったあいつは教師にいくら言われても原稿を書かず、結局何も見ずに読み上げおった。」確かこんな内容だったはず。私は正直、それはただの変わり者でしょ…と思ったが、「凄いですねえ〜」と話を合わしておいたのを覚えている。その青年こそ、皆さんご存知のBHのボス、能島さんであった。当時、自分がまさか6年後に能島さんと関わるようになるとは全く思っていなかったのだが、BHとの関わりを振り返った時、どうしてもこの時まで遡ってしまう。震災の年という節目の時の出来事だったからか、運命を感じたからかはわからないが、その時何かの「勘」が働き、能島さんの存在がその後脳裏にあり続けた。 その1年後上田と出会い、さらに2年後川中と出会い、着々とBHに誘導されていった。そして能島さんと再度出くわすことになったのである。 こんな風に、人と人との出会いは、意外なところで繋がっている。 今一緒に汗を流しているBHのスタッフと、あるいはイベントで出会った子ども達と、その他みんなが出会う全ての人々と、私が6年越しで能島さんに再会したようにこれから先あっと驚く展開があるかもしれない。 そんな期待も懐きつつ、頑張って。目の前にある出会いを大切に。 目次へ>> 熊倉 崇裕 NPOは何をするところか、 それは人がそれぞれ決めることでしょう。 社会問題のため、自分を見つめるため、学習のため、 とりあえず等、いろいろあると思います。 しかし、一つだけどんな人にも共通する想いを持って欲しいと思います。 それは、「与えられた事をこなす」ことではなく、 「自らやりたいこと」をやるという想いです。 時間と体力を犠牲にするのですから、自分が最もやりたい事を、やりたい時にやれるだけやる。それこそが、最高の結果を生むと思います。ブレーンヒューマニティがこれからもそのような人たちの集まる場になり、また集める場であればと願います。 目次へ>> 「Inspire」 新家 史崇 (しんけ ふみたか) 春キャンプ2回、夏キャンプ3回、デイイベント数回参加した今、そのときの写真を見ると、苦労したことや楽しい光景がふつふつと甦ってきます。ここでの経験は自分にとって大きな自身へとつながったと思います。本当に多くの人にお世話になり、ありがとうございました。後輩のみなさん、このBHに一人一人の「新しい息吹」を吹き込んで常に新鮮さを保ち続けてくださいね。ますますの発展を心より応援しています。 目次へ>> 瀧本 康平 私がBHで学んだこと。たくさんありすぎて、全部言いだすときりがありません。しかし、一つだけあげるとすれば、それは、「覚悟することの勇気」です。 BHで活動していると、様々な場面で決断に迫られます。イベントに参加するかどうかの決断はもちろん、総責、役員、事業部員などの役職への就任の際の決断、新しいイベントを始めるときの決断などなど、色んなチャンスを前にして、私たちは考えます。確かに、おもしろそうやけど、バイトもあるし、学業もあるし、他のサークルもあるし・・・と。しかも、このBHという団体では、活動への責任を大きく問われます。 どんな決断や選択にでも、リスクはつきものです。一つの事柄を選択するということは、つまり、他の選択肢を捨てるということです。しかし、他の選択肢を捨てる覚悟がなければ得られないものもあるように思います。 私がBHに入って出会った人の中にも、大きな決断をし、ある種の覚悟をしている人がたくさんいました。そういう人々を見ていると、自分がいつも迷っていたことは、たいしたものではないのかと思いはじめました。私が、2年前、アフリカのNGOでインターンをするという決意をしたのも、そのような人々の姿による後押しがあったからこそでした。 BHにおいてだけではありません。大学生活、人生において、「決断」の時は多くあるはずです。そのときに、真剣に考えて見てください。自分が進むべき道は何なのか。大いに悩んでください。皆さんそれぞれの決断が、自分自身を、自分の人生を、そして社会を変えていくことと信じています。 目次へ>> これからのBHを担う皆さんへ 「 多 く の 出 逢 い の 中 で 」 田中 章雅 私がBHに関わり始めて、もう2年が経ちました。この2年間、楽しいこと・つらいこと、本当にいろいろなことがありました。今回卒業するにあたって、私がいつも思っていることを書いておきたいと思います。 よく学部の友人に言われることがあります。「なんで、お前はそんなにブレヒュ行くの?」そう言われるたびに、私自身も「なぜ?」と考えて行き着いた結論は、「そこに仲間がいるから」だと思います。BHはいろいろな人との出逢いにあふれています。私もこの2年間で本当にたくさんの出逢いをしました。絶対に追いつけないと思う偉大な先輩に出逢いました。自分の人生を形作っていく上で、欠かせない友人にも出逢いました。すごいスピードで私達を追い越していく後輩に出逢いました。また、一緒にイベントをしながら涙を流せる友人に出逢いました。またある時には、1つのことについて真剣に議論し合える友人に出逢いました。ありふれた言い方ですが、みんな私の大切な宝物です。よくよく考えてみれば、こんなにいろいろな大学から、いろいろな学年の学生が集まっていて、こんなにいろいろと議論しあっている団体というのは珍しいのではないでしょうか。 皆さん、そんな1つ1つの出逢いを大切にしてください。1つ1つの別れを大切にしてください。それら1つ1つが必ず皆さんの未来の中で大切な輝きとなるはずです。1つのイベントを通して、仲間たちとふざけあい、議論しあい、時にケンカし、時に涙する。そんな喜びに一人でも多くの人が触れることを願ってやみません。 皆さんの今後の活躍を祈っています。 目次へ>> 田靡 裕祐 たなびきです。現在深夜3時。 場所はアップバレー。 隣のいちろうに尻たたかれながら、 嫌々原稿書いてます。 だって、俺、卒業しないんだもの。 まあ、ごねても仕方がないので、 気分転換に一筆書かせてもらいます。 Night Power Organizationとは良く言ったもので、 私もこんな深夜にカテキョのビラを作りながらふと思うこと。 「卒業」という一つの境目で、今までの3年半くらいを振り返れば、 自分の袋の中に雑多な宝物を、これでもかと貧欲に詰め込んできた思いがします。 そしていろんなモノをもらった恩返しに、その得てきたモノを使って ビラ作ったりキャンプ手伝ったり偉そうなことを言ったり。 なんにせよ「自分の居場所」が有るということはキモチいいことです。 在校生の皆さん! 「自分の居場所」はありますか? 主張できますか?発揮できますか? 何かひとつ威張れることがありますか? 卒業生の皆さん! あなた達はもう十分でしょう。社会でどんどん突っ走ってください。 ちっとやそっとでへこたれるような鍛えられかたはされてないはず。 主張してきてください!発揮してきてください! 威張ってきてください! 「俺はどうやねん?」 ということになりますが、まだまだモラトリアムな私は、 もうしばらくお世話になりながら、「答え」をモノにしたいと思います。 遠くまで行け、私の好きな人達よ。 目次へ>> 「後輩たちへ」 レクリエーションをこよなく愛する男 田村 明敏 大学生活ももう残り一ヶ月を過ぎました。そんな今でも、もうすぐ卒業するという実感を全く感じることができないのは、卒業論文に追われているからなのか、学生生活があまりにも早く過ぎてしまったからなのかは分かりません。 しかし、4年間の学生生活に幕を降ろし、約3年間通い続けたBHに別れを告げるというのはどうやら変えられない事実のようです。 BHでは本当にたくさんのことを経験しました。多くの友人に出会い、共に喜びを分かち合い、共に涙を流しました。間違いなくこれらの経験は今後、僕の大きな支えとなってくれることでしょう。これらかBHを支えていく後輩たちも同じ気持ちを抱きながら、何年後かにはBHを去っていくこととなるのでしょうか。僕はそんな後輩たちに一つだけBHで活動を続ける上で心に留めておいて欲しいことがあります。これは何もBHに限ったことではありませんが、僕がBHで学んだことですのでBHでの活動に多いに役立つと思います。それは「真実を見据える」ということです。 BHでの活動がそんなに楽ではなく、むしろその逆であることは実体験をもとにその通りであると思います。苦しいとき、辛いときが止め処なくやってきます。そんなときにこそ「真実を見据えて」欲しいのです。「何のために今、自分がこの活動をしているのか」という真実が明確であればあるほど、「今自分が何をすべきか」という事実が見えてくるはずです。卒業を迎える今になって、改めてそのことの大切さを感じています。後輩たちにはここBHで「真実を見据える」力を身に付けて欲しいと思います。 恐らく、普段の生活の中でも「真実を見据える」ことを大切にしていれば未来は明るいはずです。もしかしたら僕の思慮が足らないだけかもしれませんが、僕は自分の未来がとっても明るいと考えています。それは僕が「真実を見据える」ことを心掛けているからだと勝手に思っています。 僕の尊敬する人物の一人である野口英世がこのような言葉を残しています。「忍耐は苦し。されど、その実は甘し。」「真実を見据える」力があった彼だからこそ、このような言葉を残し、皆から慕われる存在であったのだと思います。 後輩たちが残された学生活の中で「真実を見据えて」BHでの活動を続け、輝くことができれば、BHは今後も学生の拠り所となってその存在を輝かせるでしょう。その輝きによってたくさんのひとの未来を照らすことができる、そんなBHになることを心より願っています。また、僕自身も「真実を見据える」ということを忘れないよう頑張ります。共に新しい未来を切り開いていきましょう。 目次へ>> 「実感する日々」 橋本 崇 2年前、多くの仲間に見送られ僕はブレヒューを卒業した。 東京に居を構え、しばらくはブレヒューとも縁遠くなるかなと思っていた。 しかし1年程でその会社も辞めた。 そして半年前、気付いたらブレヒューにいた。 みんなから見たら僕の行動は理解に苦しむのかもしれない。 年収が4分の1になってまでなぜ? 会社の同期にそう尋ねられたりもした。 韓国人の友人とスポーツビジネスを立ち上げるんじゃないの? 確かにそういう話もあった。 でも僕は結局、「ブレヒュー」を選んだ。 最高に楽しかった。 運命だったんだと思う。 会社を辞めたのも、ブレヒューに戻ってきたのも、 ここでまた多くの仲間と出会えたことも、全て。 ありがとう、みんな。 やっぱり僕は、ついてる。 目次へ>> 「3度のキャンプを通して」 畑 拓衛 私は、おととしの夏キャンプ以来、「輝け!夏キャンプ2001」、「スプリング!発創生活2002」、「のびのびサマーキャンプ2002」の3度、キャンプに参加させていただきました。 それらのキャンプにおいて3度ともリーダーとして活動したのですが、子供ひとりひとりのことを把握し、どのように振る舞えば子供が楽しんでくれるのかを常に考えながら行動することは決して容易ではありませんでした。しかし、子供達と4、5日という短い時間の中であっても深く関わっていくうちに子供ひとりひとりの個性が見えたり、自分のことを慕ってくれたりすると本当にこの活動をやってよかったと感じさせてくれる瞬間がいくつもありました。そして、キャンプ後にはきっとスタッフの方とはまた違った喜びを味わう事ができたと思います。 キャンプと言われてもピンとこないまま「子供が好き」という理由と友人に誘われたのをきっかけにブレーンヒューマニティに所属する事になりましたが、今振り返ればたった3度の活動でも、私が普段の生活では絶対に体験できないことをこの活動を通じて経験することができて心より感謝しております。最後になりましたが、私を様々な面で支えてくださった友人の皆さん、本当にありがとうございました。 目次へ>> 浜之上 健太 僕はBHを通して3回のキャンプに参加しました。まわりは学生ばかり。知らない人、知らない作業・・・右も左も分かりませんでした。それが準備を進めて行くに従ってだんだん仲良くなっていって、するべき事が見えてきて。BHの様々な活動を通してたくさんの友達ができました。僕はその友達が頑張っていたこと、苦労していたことを知っています。友達も僕のしていたことを知ってくれています。自分がした仕事を分かってくれる友達がいて、友達がした仕事がわかる自分になれる。それが僕にとって一番大きな「BHからもらったもの」です。この人との出会い、理解がのちのちのBHに続いていくことを願っています。出会ったすべての人に感謝します。ありがとう!! 目次へ>> 林 洋平 私が初めてブレヒューの事務所を訪れたのはいつのことだか忘れましたが、とにかく友人の増田君と共に桐野君を迎えに行ったときでした。その時に増田君が上田君の巧みな話術により輝けキャンプに参加することになったのですが、私は特に興味もなくその時は何もしませんでした。その後夏休みに入ったのですが、普段共につるんでいた桐野、増田、上田等が連日ブレヒューの活動に精を出し、ふと気が付くと私だけ蚊帳の外状態になっていました…。で、「じゃぁ、ぼ・ぼくも…」といった感じでブレヒューに携わることになったわけです。ここまで意志が低い状態でこの団体に入った人も珍しいかと思います。しかし、いざ輝けキャンプのメンバーとして活動してみると、意外に楽しかったというの事実です。個人的なことですが、中学から関学でしたので仲の良い友人は皆関学生でしたので、輝けキャンプに参加したことにより、他の大学や異なる環境の人たちと知り合うことができました。また、大学では特にサークルや部活に参加することもなかったため、大人数で一つの目標に向かって何かに取り組むということができ、とてもいい経験になりました。ひょんなことでこのような経験をさせてもらいましたが、今ではその経験が学生時代の財産の一つになったことは間違いありません。誰にどう言っていいのかよくわかりませんが、そんなにいないでしょうがとりあえず私を知っている皆様、どうもありがとうございました☆ 目次へ>> 「事務所恐怖症」 久道 勇 2002年、秋のある日。 私は学校を終えて事務所に向かおうとしている。現在、午後10:00を回ろうとしている。学校から事務所に行くには、1時間半はかかる。事務所に着くのは11時半ってところだ。ということは、もちろん泊まりということになる。明日はサタプロの派遣業務。自然と溜息がでてくる。 学校を出る前に荘平に電話する。相変わらず一本 調子の声だ。相当萎えてきているらしい。 学校の最寄り駅で、同じ学科の友人と出くわす。私は、学校の近くに家があるため、こんな時間にどこに行くのかというようないぶかしげな顔で、「どこ行くの」なんて訊かれる。若干気まずい・・・。ちゃんと応えるのもめんどくさいので、「ちょっとね・・」と言っておく。元来、怪しい顔をしているので、彼にとってわたしのあやしさは増幅したことだろう。何も説明していないのに、彼は「深夜バイト?」なんてきくもんだから、私は「そんなもんかな・・・」なんて言ってお茶を濁す。 そうこうやってるうちに梅田に到着。ここで友達と別れて阪急へ。阪急電車は、残業帰りのサラリーマンや、飲み会帰りの人が多い。さすが金曜だ。ここで、明日はサタプロだということを再認識する。あーしんど・・・。何でこんなことやってんだろう。何で自分が・・・。そんな時に、事務所にいる荘平のことを思い出す。あいつは、俺の100倍しんどいのだろう。でも、もうちょっと明るければいいのに。 そうこう考えている内に西北へ。ここまできたら後戻りできない。意を決して事務所へ。「おはようございます!」。いままでの、しんどさを押し殺すようにして元気に挨拶をする。ここまでくると、もうやけくそだ。とにかく明るくするしかない。ここにいる内は、自分は元気にしとかにゃならんのだ。そうじゃなきゃ、頑張ってるボランティアが報われない。 荘平と明日のサタプロについて話をする。まだ、準備ができてないらしい。最近では、いつものことなので驚かない。これじゃいかんと思っているけど、体も心もおっつかない。周りの人間は、言いたい放題批判するけど、これが現状だ。反論する気にもなれない。 「明日は(子どもは)何人来るの」。私が訊く。「○○人です」彼が答える。「そんなに来るのか・・・、なんでやろな?」。私が言う。「何ででしょうね」荘平が言う。私たちは、意を決して準備に取りかかる 2人ともわかってるのだ。なんで、こんな時間にこんなことやってるかのか。なんで、こんなに磨り減ってまで、徹夜までしてイベントをするのか。 多分答えは、子どもが来るからだ。自分たちのイベントが、もう既に社会に入り込んでしまっているから。 私は、これからも誰かに「なんでそんなことやってたの?」と訊かれたら。「そこに子どもがいるからだよ」と答えたい。 ※ 物語は、ほぼフィクションです。でも、こんなことが実際にあったような気がするので書きました。 目次へ>> ひばなともこ 「いろんな偶然に感謝!!!」 目次へ>> 「伝えたいこと」 平阪 敦司 僕がブレーンヒューマニティーで一番好きな場所。それは事務所のサーバーの「写真集」だ。 一枚一枚の写真は、イベントのなかのほんの一瞬を写したものかもしれない。でも、そうした一瞬一瞬が積み重なって1つ1つのイベントは作り上げられている。 自分が入会する前のイベント、自分が参加したイベント、自分が参加していないイベント…。そこに行けばいつも、子どもたちに出会える。共闘する仲間たちに出会える。そこに行けばいつも、BHで活動している自分自身を見つめ直せる。 一枚一枚、いろんなイベントの写真を見る中で、僕は考える。あの日あの時、イベントを通して楽しさや嬉しさ、つらさと喜びを共有した人たちが確かに存在しているということを。そうしたイベントを作り上げるのに、どこかで確実に自分の力が働いているということを。 BHでの活動には、大きな学びや達成感を得られるものがある反面、「なんでボランティアでここまでやらなあかんの?」とか「こんなことやりたないわ〜」と思うことも多々あると思う。とかくBHは、褒められるより叱咤されることが多い組織。忙しさやつらさ、しんどさが先に立ち、逃げ出したくなったり、責任ある役割を担ったりすることを恐れてしまうかもしれない。活動している意味を見失いがちになるかもしれない。自分がやっていることに自信がもてないかもしれない。 "Where there's a will, there's a way"(意志あるところに道はある)。キャンプスタッフ、企画長、研修、中長期ビジョン委員会委員長、ものづくりツアー総責任、イベント会計、土曜体験活動、総合事業局長、宮水ジュニア・・・。1年生の冬にBHに出会ってから、4年生の最後まで、僕は自分がやってみたいと思う役割、自分ができる役割は、逃げずにやった。そして自分が参加できるイベントにはできるだけ参加するようにしてきた。イベントの度に多くの子どもに出会い、かけがえのない仲間たちを得た。イベントの度に自分の甘さを思い知った。子どもたちを「支える」ことを考える中で、「支えられている」自分に気がついた。BHでの活動を通して、能島さんはもちろん、先輩方、後輩たち、同級生に支えられ、僕は強くなれた気がする。BHに関わりながら走り続ける中で、自分に自信がもてるようになった気がする。これから僕は、社会に出て行くけど、BHでの4年間の活動に自信をもって、がんばっていこうと思う。 後輩たちへ。僕らは「支えられている」ということを忘れないでほしい。子どもたちを始めとする参加者がいなければ僕らの活動は存在しないし、僕らのミッションや活動内容に共感し、支援してくれる人たちがいて僕らの活動は成り立っている。BHの活動は決して楽じゃない。かっこいいものじゃない。だけど、もっともっと、「汗くさく、泥くさく」がんばってほしい。「喜びはそのための努力に比例する」から。そして、自分たちがやっていることに自信をもってほしい。サタプロがある土曜日は、すでに50人から70人の子どもたちの生活の一部になっている。国際ワークキャンプに参加した高校生たちは、間違いなくその経験を胸に、より広い視野をもって、将来に向かって動き始めている。そして、そうしたイベントを企画・実行しているBHを支えているのは僕らなのだから。 卒業後、事務所でBHのみんなと出会うこと、そして「写真集」の写真たちを見るのを楽しみにしています。 目次へ>> 「何ができるではなく何がしたいか」 藤田 京子 私は、BHが何をしている所なのかわからないまま、何となく誘われて参加しました。そんな私が最初に関わって感じた事は、ここに集まってきている人は「個性的」ということでした。皆が自分の役目や立場を認識し、自分の個性を活かしていました。 正直戸惑いを感じました。何の特技も能力もない自分が個性に溢れているこの場で何ができるかわからなかったからです。(その上もともと子供と接した経験もない・・・・)ただ何ができるかわからないけど何かしたい、自分を試してみたいという思いを持っていただけでした。これは人前で苦手な事を避けてきていた自分自身にとっての小さな挑戦でもありました。 そんな私がなぜ今まで続けてきたか。今振り返って思う事は、周囲の仲間がこんな私を受け入れてくれたからでした。専門技術や特技のあるなしだけで判断せず、分からない事は丁寧に教え、本音で向き合い支えてくれました。中には能力で決める人もいるかもしれません。でもここにはさまざまな視点を持ち、それを自由に意見を言い合える人と場所があると思います。 だからこそみんな一方に偏らず個性に溢れているのだと思います。「個性的」とは、「変わっている」とかではなくそれぞれが自分にできることを必死にやり、思った事を正直にぶつけ合っているからだと実感しました。 自分に何ができるのかわからず何となく参加している人もいると思います。急にやったこともない立場になって困惑することもあると思います。でも、少しでもやってみたいと感じたら怯まずチャレンジしてほしいです。前向きな姿勢を持ちつづけると、自分にできることが見つかると思います。それが自然と自信に繋がり個性になると信じ、がんばってください。 目次へ>> 「やっててよかったBH」 二上 徹平 この、やっててよかったっていうのも何が良かったかと聞かれるとなかなか答えにくいんですが、BHは自分の大学生活の中でとても大きな存在だったし、そこでたくさんの大切なものに出会うことができました。本当に、BHとの関わりなしに自分の大学生活を語ることはできないというぐらいです。 始めたきっかけがどのようなものだったにせよ、今までやってきたことは全て「やって良かった」と思えることばかりです。BHとは主にキャンプで関わってきて、最後には慣れない総責までやらせてもらいましたが、実際辛いことたくさんでした。でも、そのキャンプを通じて出会えた仲間や、そこで経験できたことは、今となっては大学生活の中でのかけがえのない宝物となっています。 確かに、後悔したこともあります。ただ、「やっておけば良かった」と思う後悔はあっても、「やめときゃ良かった」と思ったことは一つもありません。失敗したり、間違ったりしたこともたくさんありますが、今はそれらのおかげで成長できたと感じることができます。結局は、ビビってやらなかったことを悔やみ、恐れずにやってみたことを誇ることができているのだと思います。だから、これから活動をやってみたいと思っている人、ガンガンいってください。周りはすごい人ばっかりだけど自分はそんなキャラじゃないと思ってる人、そんなことありませんよ、やってみればきっと分かります。 なんか分かったような分かってないようなことを書いてしまいました。でも心から、いろんな事を伝えてくれた先輩方に、共にがんばった仲間達に、そしてこのBHを支えている全ての人達に、感謝しています。ありがとうございました。 目次へ>> 『出会い』 松浦 友紀 自分はこういう人間だ。 私は自分自身のことをすべて分かっているつもりでいた。 自分の知らない自分なんていないと思っていた。 大学4年間で出来るだけたくさんの人と出会い、色々な事を吸収しようと思っていながら、人と出会うことは自分の知らない新しい自分との出会いでもあるという事に気付いていなかったのかもしれない。 学生生活4年間の様々な出会いの中で私はようやくその事に気付いた。 そして特にBHとの出会い、そこに集う仲間との出会いで私はとても大切なものを手に入れた気がする。 ひとつの目的に向かって、色々な考えを持った人たちが集まりイベントをする。時には意見が違って言い合いになったりする事もあったが、それも含めて本音でぶつかって怒ったり、笑ったり、泣いたりする中で、かけがえのない仲間ができた。 そして、じっくりと時間をかけて語り合う中で、自分の中の知らなかった自分にも気付く事ができた。 それぞれがそれぞれのやりたい事を形に出来る場所、新しい自分を発見できる場所、それがブレーンヒューマニティーだと思う。人は日々変化する。そしてその変化のきっかけになるのが人との出会いではないだろうか。 「相手や周りを変えようと思ったら自分がまず変わらなければ何も変わらない。」 何年か前、BHで先輩から教えてもらった言葉だ。 「私は私」それでいいと思っている。 しかし、現状の自分に満足するのではなく、常に自分を見つめ成長していきたい。これから社会に出て辛いこと苦しいことがあっても、自分らしく、人との出会いを大切にしながら常に前向きに生きていきたいと思う。 最後になりましたが、ブレーンヒューマニティーという出会いの場、活動の場を与えてくださった能島さんをはじめとする皆様に感謝します。 本当にありがとうございました。 目次へ>> 「三年間の意味」 元不登校関連事業部代表 宮前正裕 ぼくは大学二年生の4月(2000年)にHEP新人研修に参加して以来、シェアリングや副代表、そして代表として事業部の運営を行いつつ、レクリエーション事業部のキャンプなどへの参加を通じてブレヒューに関わってきました。昨年12月を持って事業部の引継ぎは終了し、今は車の免許の取得や引越しなど次の舞台に向けた準備をしていますが、最近になって余裕があるせいか(?)ずっと分からなかった「なぜ三年間もブレヒューに関わっていたのだろうか?」 という問いの答えが何となく見え隠れするようになりました。 みなさんご存知の通り、ブレヒューは学生主体のNPO法人・・・様々な関わりの中でどの関わりであれ、それなりの責任が求められます。 ○ボランティアではないの? ○何でそこまでせなあかんの? ○学生では無理だ! ○自分がやりたいことはこんなことではない! などなど、他にもいろんな疑問・不満を持ちながらも活動しているボランティアも多いと思います。自分自身もそんなことを思いながら活動していたときもありました。 でも・・・今になって「なぜ続けてきたのか? 続けてこられたのか?」と考えたとき3つのキーワードが思いつきました。 『人』 ぼくは周りの人曰く頑固なようで、本当にいろいろな人とぶつかってきました。ときには何も言い返せない自分に腹が立ったり、くやしくなったり。それでも思ったことは本気でぶつけてみました。それが年上であれ、同級生であれ、後輩であれ。そしたら結果がどうあれ不思議と納得できました。そうして共に活動していく中で、「いてくれている」だけでも安心できたし、いろいろ助けてもらいました。 また子どもと実際に関わったこともいろいろ勉強になったし、その後の自分の進路、そして子どもに対する考え方の大きな柱の一つになっているのは確かです。 『社会との接点』 自分たちのためだけの活動ではなく、 ・ 子ども(親)に対して自分たちは何ができるのだろうか ・ 活動の結果、社会に対してどのような影響があるのか といったことを真剣に考えることができたのは「ブレヒューだったから」と心から思います。 ミッションのないときから、事業部レベルで、またキャンプレベルでも先輩からこのことを大事にするよう伝えられてきました。大学生で自分の周りにいる人たち、社会のことを考えながら活動できたことはとても意味あることだと思います。 『自分自身のステップアップ』 ぼくは先に述べたとおり大学二年生でブレヒューに関わり始めましたが、周りの同級生はすごい人たちばかりなのに当時はパソコンはおろか、コピー機も使えない、事務作業もできない、会計なんかとんでもない!といったように、【何もできないボランティア】でした。 当時みんながアクセスの話をしているときには何のことか分からなかったけど「分からない」と言うのが恥ずかしかったので何となく話を合わせたこともありました(笑) でも、逆にブレヒューが自分にとって「できないことだらけの環境」であることが自分の課題を浮き彫りにしてくれました。いつしか「ここで活動すれば自分の中でゼロだったものがゼロではなくなる」と思うようになり、ほんまいろいろなことをしました。自分自身で何が、どのように成長したかは分かりませんが大学二年生のころの自分と比べれば何かは変わっている・・・という確信があります。 つらつらと書いてしまいましたが、上の3つが今までブレヒューを続けてこられた理由のキーワードです。ありきたりですが、自分の中のブレヒューがはっきりしてきてよかったと思います。みなさん忙しい中このような機会を頂いて本当にありがとうございました。 みなさんもこれから先いろいろなことがあると思いますが、人に、問題に、組織に、社会に「しっかり向き合って」活動してみてください。 ブレヒューはそれができる場です。 大丈夫!確実に力はついている。 そろそろ自分たちを信じるときやで(笑) p.s 『今』という魚は逃したら大きいよ。 目次へ>> 「BHのみなさんへ」 森 麻衣子 いよいよ桜の季節。私にも春から東京での社会人生活が待っています。 学生生活の4年間を振り返ると、頭の中には色んな人の顔が思い浮かびます。 BHをはじめとして、ほんとにたくさんの人たちから影響を受け、悩みながら今の進路を選びました。 そこで私が好きな言葉を一つ。 「あなたのチカラの半分は、他人のチカラで成り立っている。」 藤原和博さんという方の言葉です。 自分ひとりの力でできることって、実は思っているよりも小さい。 それに、誰かに頼りながら成し遂げられることの方が 人とのエネルギーの交流があって楽しい。 人と真剣に向き合えば、葛藤もあると思います。 でも、自分ひとりじゃ見えなかったことが、 誰かの目を借りて見えるってこともあるはずです。 これからの貴重な大学生活、いろんな人と深く交流して、 自分を広げていってくださいね。 短い間でしたが、ありがとうございました。 目次へ>> 山田 麻里奈 BHでの活動は、たくさんの学びと経験と楽しさを与えてくれました。 大学生活4年間、 私にとっては大学での生活よりもBH活動が主でした。 受けた影響が、もっとずっと大きかったです。 でもこの活動に出会えたのは大学に入ったおかげだし、とても感謝しています。 実際、大学を卒業すると同時にBHも卒業になるわけなので…淋しいです。 大学に入っても、BHに出会える人は数人〜数十人だと考えたら、私はなんてラッキーなんだと思います!今私が受験生なら、大学じゃなくてBHを受験するでしょう(笑) もう一度。 私はBHと皆さんにめぐり合えた自分を、誇りに思っています。 もし私が関学の総政に入学していなかったら、 もし私が総政のテニス部に入っていなかったら、 私はBHにいなかったのかなぁ… 関学を受ける中でも総政は、志願書提出ギリギリで決めた選択でした。 ギリギリまで経済か総政で悩んでいたのです。 三田なんて田舎だし、学費も高いんだから… って声があったので。 悩んでる私に友達が、「自分の好きな方受けたら?」って言いました。 単純で当たり前のことだけど、その一言にやたら納得し、総政に決めました。 大学に入ったらテニスをやるぞ!って決めてました(柔道はおさらば)。 テニスサークルは2つあったけど、一つは絶対入るなと言われてました。 それほど悪い噂が飛び交っていたのです(ナイショ) でもなぜか私はそちらを選びました。小人数なのがよかったのです。 そこにいた部長さんが、キャンプしてみない?って、誘ってくれました。 そしてBHに出会いました。 人生は選択の連続で、常に右か左か真ん中かみたいな道選びをしているようなものだと思います。結局一つ一つの大きな選択は、自分でこうして振り返ると、自分の好きな道を歩んでいます。そして、そのおかげでBHにめぐり合えたんだと思います。 だから、この道でほんとによかったなって思うことができました。 だから、そんな選択をした自分を誇りに思います。 今、皆さんがどうしようか悩んでいることがあったら、「好きな方」を選んでください。(当たり前ですが…) 自分の行きたい道が、自分にとっていい道です。 私は常にそう思っています。 私はBHのおかげで、自分の道に誇りを持つことができたし、これからもそうして歩んでいこうと思います。 また、楽しい経験をくれたBHと暖かく支えてくれた皆さんには、 とってもとっても感謝しています。 私がお寝坊三昧だったことは皆がよく知っていると思います…すみませんでした。 ほんとにほんとに、迷惑をかけっぱなしで、すみませんでした。 私が活動を頑張れたのは、支えてくれた皆さんがいたからです。 まだBHに慣れないときに、ラーメン部に誘ってくれた人、ありがとう。 会計という役割を最初に推してくれた人、ありがとう。 子供の劇で、大外刈りをくらわせ怪我をさせてしまった人、ごめんなさい。 領収証の数が合わない時、ひたすら一緒に数えてくれた人、ありがとう。 手伝ってもらっているのに、終電に飛び乗り先に帰ってしまって、ごめんなさい。 当日寝坊してしまい、受け付け係を代わらせてしまった人、ごめんなさい… 思い起こせば、キリがないです。 ここには書ききれないくらいの出来事が、たくさんありました。 嬉しいこともヤなことも、今では全部が財産です。 学生というだけでは経験できない、貴重なものがココにあったと思います。 最高の時間と、大好きな皆さんと過ごせて、私は幸せです。 今BHで活動をしている皆さん、これからも頑張ってください! 嬉しいこともヤなことも、たくさん吸収して、成長していってください! そして、自分と自分の行く道を信じて、歩んでいってください!… そして4年間、皆さんどうもありがとうございました!!! 目次へ>> 「お世話になりました」 吉岡 孝博 土曜体験活動のボス、吉岡です。 早いもので、昨年の7月からブレーンヒューマニティーにお世話になり、3月末で契約が無事終了することになりました。土曜体験活動も計10回を実施し、サタプロやプレーパーク、キャンプにスキーなどにも参加させてもらい、大変、有意義な日々を過ごしました。子どもを扱う仕事は、前職の関係で慣れてはいましたが、なにより、大学生のみなさんの熱心さに大変、感心しました。 組織としてはまで、発展途上にあると思いますが、みなさんの情熱でこれからも突き進むことを期待しています。 最後に、卒業生のみなさん、社会人になっても、ブレーンヒューマニティーで体験した感動をいつまでも忘れずに社会の荒波を乗り越えていってください。 合言葉は「チャレンジ!マイセルフ!」です。 短い間でしたが、お世話になりました。ありがとうございました。 目次へ>> 「自分の思い、後輩への思い」 吉田 督史 私がBHに関わったのは、「子ども好きじゃない?」というサークルの先輩の一言からだった。そこで私が体験したことは、自分と大して年が変わらない学生が、学生だけで子ども60人余りを引き連れてハイキングをする、というデイイベントだった。私はイベント後、ただただ必死だったイベント中を振り返り、非常に感動していた。学生だけでこんなことができるのか。していても許されるのか。迷子になったらどうするのか、大ケガをしたらどう責任をとるのか、イベントが終わった途端様々な疑問が頭に浮かんだ。それに、まるで言うことを聞かない子ども達の相手を一日して私は心底疲れていた。その後打ち上げ。知り合いはまだ2人だけ。関西にきたばかりで友達もいない中、大人数の飲み会は初めてだったがなぜか楽しかった。「自分もこんなイベントをやってみたい」、「彼らのようになりたい」。その思いが私をBHの前身である関学学習指導会に引き込んだ。 きっかけは何でもいい。私はそんなことがきっかけだった。そこから何を感じ、何を思い、何を成すかは自分次第だ。誰かについていきたいと思う、社会に対して成し遂げたい思いがある、子どもが好きである、組織経営に興味がある、財務に興味がある。何か感じたことがあったなら、少し関わりを深くしていってみたらいいだろう。 それからの私はイベントをやることに必死だった。初めての宿泊イベントでは先輩について好き勝手にいろんなことをさせてもらった。ただただ楽しかった。寝る間が惜しいほど楽しかった。初めての実行総責任では、先輩方に迷惑ばかりかけた。基本的な事務がわからない、スタッフをどう集めたらいいかわからない、子どもをどこから集めたらいいかわからない。そこで私は生まれて初めて自分の未熟さを知った。事業部代表もやった。全てのイベントに参加し、管理監督する。また他にイベントのマニュアル作りや、事業部自体のことを考える事業部会なども開いていた。私はこの時、自分の限界や、限界がくると逃げようとする自分の弱さを知った。必死な中、どこかで逃げようとする自分がいた。イベントには慣れてきていたものの、それ以外の代表としての仕事がどうしてもついていかなかった。 辛いことや苦しい時は必ずある。そこで自分がどう行動するか。何を考えるのか。プライオリティの最も高いものは何なのか。自分の全ての時間を捧げるのか、周りに協力してもらい切り抜けるのか、逃げるのか。それは自分次第。どんな考えを持ち、どんな行動をとっても、本当の気持ちは自分にしかわからない。そこで考えた気持ちがどんなものであれ、それを覚えておくことが大切だ。 常務理事になり事業部代表を辞めたころ、私は自分自身が子どもに「こうなってほしい」という思いがあることに気が付いた。「自立心を持ってほしい」。誰かに言われたからこうする。友達が好きだから私も好き。そうではなく、自分という人間を確立してほしいという思い。自分が感じ、考えたことを信じる。自分の考えと違うものが主張されれば、自分は私はそうではないということを口に出して言う。そのことでぶつかることもあるだろう。だがその衝突こそが今の子どもには必要だと感じたのだ。イベントにきても子どもが話すのは我々スタッフに対してか、もとからの友達だけ。初めて会う子ども同士が話をすることはほとんどなかった。そこで私は能島さんのきっかけによりフリータイムばかりの長期宿泊キャンプを行うことにした。そこにきた子ども達が、何か変わったのか、それはわからない。ただ私はそういうきっかけを与えたかった。そのために自分が信頼できるスタッフを集め、自分のこの思いが子どもに少しでも伝えるために努力をした。自分が目指すことがわかりそれに向かって努力することは、体はしんどくても常に高いモチベーションを維持することができた。久々に楽しかった。心から。 自分が社会に対して何を果たしていきたいか。今自分がやりたいこと、自分にできることは何か。それを見つけそれに向かって努力する。その努力を周りの人々は理解してくれるだろう。自分が本当に必死になれる理由がそこにあるからだ。たとえ失敗しても、自分のその行動は必ず社会に何らかの影響を与えている。小さなことかもしれないが確実に。自分のやりたいことを見つけよう。それはBHでなくてもいいだろう。そしてそれに向かって努力をしてみよう。きっと何か、得るものがあるはずだ。 就職活動。私は初めてBHと関わり薄い日々を過ごした。まわりの就職活動生を見て、感じたことが1つ。私がBHで得たことは計り知れない。特にディスカッションなどグループでの活動では考えられることが周りの学生とは違う、と自分で思った。物事の考え方、道筋の立て方。コミュニケーション能力。私はこの2つを知らないうちに身につけていた。BHでの様々な議論や、BHのボランティアや子ども、保護者とのコミュニケーションによって自然と身に付いたのであろう。私はBHにいて、ずっと続けていてよかったと思った。そして、能島さんとたくさんの先輩や友人、BHに感謝した。卒論ではNPOの社会的意義を知りたいと思い、自分の体験をふまえ様々なことを勉強した。社会というものに興味が向いたのはBHでの活動があったからだ。 自分が大学時代どう変わったか。また全く変わらずにいられたか。自分が学びを得ることができる場所が在り、そこで様々な人と出会う。その人達から受けた影響や、その人達と共に取り組んだことによって変わった自分。また、それでも変わらなかった自分。そんな自分を見つめてみる。その機会を与えてくれたのは、大学へ行かせてくれた両親、大学時代に出会った人達、自分がその人達とやってきたこと。それら全てに感謝しよう。そして、見つめたことによってわかった自分を、自分として認め自信を持とう。そんな自分を変えたいと思うのなら挑戦しよう。4年間が自分にとってかけがえのない、有意義なものになるように。満足できる学生生活を送ってほしい。 最後に、私と関わりを持った全ての人たちにお礼を言いたい。ありがとう。 目次へ>> |
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