TSU・NA・GI

●"Do Communications!" 11 〜さびしいときに〜

 教会の知人、星野恵子さんから録音テープをいただきました。中田喜直作曲、『金子みすゞ詩による童謡歌曲集「ほしとたんぽぽ」』より8曲の童謡がすばらしいソプラノで歌われていました。声楽をしておられる彼女のソプラノ演奏です。その一曲に「さびしいとき」という歌がありました。次のような詩です。
  私がさびしいときに、
  よその人は知らないの。
  私がさびしいときに、
  お友だちは笑ふの。
  私がさびしいときに、
  お母さんはやさしいの。
  私がさびしいときに、
  佛さまはさびしいの。
 星野さんがこの詩を歌うにあたって、「私がさびしいときに、/お友だちは笑ふの。」というところをどのようにイメージしたかを、私に話されたのです。
 「友だちが私のさびしいことを見て、どうしてだろうという気持ちで笑っているのか、自分とは次元の違うところで笑っているのか、どちらの解釈をとるかで、歌の遠近が異なってくるのですよ。」
 星野さんは後者のイメージ、遠い感じで歌うことしたのだと。ところがピアノ伴奏者は違っていたそうです。聴いてみると、この部分の伴奏は激しく、近くなっているのです。私はこの話から、自分の「さびしさ」につき合ってくれる他者のさまざまなあり方、そして、自分がその他者のあり方をどのように受け入れるのかということに気づかされたのです。
 つまり、よその人は知らない(それでいい)。友だちは笑ってくれている(心が和む)。お母さんは優しく抱きしめてくれる。佛さま(神さまと言ってもいいでしょう)はともにさびしさを慈しんでくれる。このような「つながり」に自分は生かされている。これが私の解釈です。さて、読者の皆さんはいかがですか。
  
金子みすゞ:本名は金子テル。大正末期から昭和初期にかけて活躍した童謡詩人。1903年に現在の山口県長門市仙崎生まれ。1930年に26才の若さで逝去。近年再評価されている。

(聖マーガレット生涯教育研究所 主任研究員 長尾文雄)

TSU・NA・GI第2巻第7号(2000/10/20発行)より