●"Do Communications!" 19 〜 「じゃんけんぽん!」と「自分で選ぶ」 〜 私の育った家のことです。私は1940年(昭和15)、農業を営む家の次男として生まれます。家族構成は両親、15歳年上の姉、7歳年上の兄、そして私と4歳下の弟の6人。 小学校6年生の頃です。少しばかり成績のよかった私は、担任の先生に私学の中学校への進学を勧められたのです。両親に相談したところ、現金収入の少ない農業をしている我が家では、私学に通わせる力はないと言われました。このときはじめて、わが家の経済状況について知ることになったのです。 父は当時、村の役職や消防団の役職などの名誉職につき、自宅で役員会をしては、そのあと芸者をよんで宴会をする。見た目には、裕福な生活をしているように、子どもの目には映っていたのです。だが現実は違ったのです。名誉職は、お金にならない仕事を引き受け、身銭を切ってみんなの労をねぎらい、散財をすることが父の勲章であったのでしょう。 進学をあきらめかけていたところ、私を養子にするという話が伯母から持ち上がります。母の姉で明治の初め頃に没落した長尾の本家すじに嫁いでいたのですが、彼女には子どもがなく、自分の一番下の弟(私の叔父)を養子にし、その叔父にも子どもがないので、名ばかりの本家の跡取りとして、12歳になる私を養子にしたいと考えたのです。 伯母は大正13年甲子園球場のできた年から、国道に面したところでたばこと雑貨の店を切り盛りしていました。この伯母が私の授業料を出すという条件で、両親は養子縁組を承諾。しかし、私の生活は実家でそのまま、姓も変わらない形だけの養子であったのです。 この交渉過程で私は子ども心に、わが家の経済状態や父親の出費、農業や不動産資産の運用を基本にした暮らしぶりの情報を公開され、了解し、共有することになったのです。 私が入学したのは、関西学院中学部、1953(昭和28)年の春です。当時は、阪神間の裕福な家庭の子どもが多いとされていました。それらしい級友もいて、近づくと付き合いきれないという子どもなりの判断を持ったのでしょう。私は自然に自分の「家」に見合った友だち関係を築いていたようです。 結果的には授業料と引き換えに養子に出した両親は、どのように思ったのかを聞きそびれましたが、この情報公開はその後の自分の生活スタイルを決める原点になったのです。 |
(聖マーガレット生涯教育研究所 主任研究員 長尾文雄) TSU・NA・GI第3巻第4号(2001/12/1発行)より |